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若宮流とは

若宮流とは

日本舞踊の流派「若宮流」は、伝統的な舞(踊り・芸・様式美・しきたり・作法)を継承している団体です。

主な活動は
「琴唄舞の会」
若宮流のおさらい会で、浅草公会堂にて2年に1回開催。

「舞初め」
年に一度、流派一門が集う会合で、毎年1月新年会と共に熱海にて1泊で開催。

「名取式」
流派の師範を許された者は名前が与えられ、賞状と看板が授与され、他の模範として舞の指導を許される。式は神社にて厳かに執り行われる。

「慰問、ボランティア活動」
各地域にて特養施設やその他の場所にて、門弟が舞を披露する活動や、日本舞踊の体験や、サークル活動などを行っている。

琴唄舞とは
主に箏曲の地方で舞われる地唄舞のことです。

流派の歴史

若宮流の起源は、天正四年奈良春日神社の宮司藤原幸右左衛門(若宮流始祖)が天下泰平五穀豊穣壊祈願のため、「やゝ子踊り」「子守踊り」との説もありを考案奈良春日神社若宮拝殿に奉納舞を献ず。この時の巫女が出雲のお国七才時とも加賀の国姉妹七才と九才時との両説あり。
天正九年、幸右左衛門は宮中に召されお歌所出仕となり、白拍子の司を勤め歌会等で詠まれた歌に舞の手附をなし、其れを舞わせて歌会等に興を添えたと云う。
幸右左衛門は、再度春日神社宮司として奉仕し若宮の司として若宮拝殿を守護し、春日神社を始め各神社の祭事に神社音楽に舞の手附をなし、奉納舞を献じこれを人々は春日若宮舞と呼んで居たと云う。
後に徳川家の寵愛を受け京都二條城出仕となし、捨扶侍百石を受け二條城お歌所舞の司として徳川家没落まで奉仕して居たと云う。
二條城奉仕時代琴三絃、又は素謡りに舞の手附をなし、これを城中で舞うを御殿舞と云い、武家の屋敷等で舞うを屋敷踊りと云って居たと云う。猿若舞と云う舞は若宮舞から出たとも、又同一の舞であるとの説もあるとの事。又田楽舞と云う舞も幸右左衛門の手附の舞であるとの説もありとか。
明治以後京都嵯峨野の里に居住し、近郷の婦女子に琴を地にした舞を教授し、又は神社佛閣の祭事に奉納舞を舞い生活の糧として居たのを明治十八年に長子幸之助が琴唄舞の大衆化を許り、京派琴唄舞若宮流と名附け初代宗家若宮香曻を名乗る。これが現在の琴唄舞若宮流である。
大正二年氏家賢三(能狂言師)が娘婿となり、二世宗家若宮香曻を襲名す、二世若宮香曻は昭和十六年まで長崎市籠町に居住す。
昭和元年、三世若宮香曻が五才時弟子となり、舞の修行に入る。同三年六月六日芸養子となり、同十八年一月、京都新京極三友劇場にて三世若宮香曻襲名披露舞の会を二世若宮香曻口上、市川小太夫、山村愛師匠後見にて披露す。昭和二十三年、東京に若宮流本部をうつし、昭和三十年六月六日若宮流舞踊研究会を創設。同四十五年、小曲舞踊教室を新設。
平成十九年四月一日、三世宗家若宮香曻の孫が四世を継ぎ、浅草公会堂にて「四世宗家若宮香曻襲名披露」および「第四十七回若宮流琴唄舞の会」を開催し、現在に至る。

組織概要

全国の支部

  • 甲府若宮会
     会主:分家家元 若宮香寿
  • 埼玉若宮会
     会主:分家家元 若宮香寿保
  • 松本若宮会
     会主:分家 若宮香翠之
  • 大分支部
     支部長:直門 若宮香翠江
  • 福岡支部
     支部長:本部相談役 若宮香久楳
  • 沖縄支部
     支部長:直門 若宮香澄穂
*各支部では舞踊講習会を年に数回ほど開催しているところもあり、見学参加ご希望の際はご連絡くださいませ。